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さまざまな事情で親が育てられない子どもを引き取って養育するファミリーホーム(小規模住宅型児童養育事業所)を運営する「つきしろキリスト教会」の牧師、砂川竜一さん(55)。
現在、妻の周子(ちかこ)さん(56)と暮らす南城市の自宅には、里子ら8人が同居している。
在沖米軍基地に赴任した米兵と地元女性の間に生まれた砂川さんは、当初、日本国籍が認められず、父親も不在の苦しい幼少時代を過ごした。
「その経験があったから今がある」。当時の苦難は、この世での使命を果たすため神が自らに与えた試練だと確信している。
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1996年、26歳の砂川さんが児童養護施設で初めて会った由美ちゃん(仮名)(4)は、目玉が一個しかない、汚れた人形を大切に抱いていた。
母親が由美ちゃんを知人に預けたまま消息不明となったため、児童養護施設に収容された。何組かの夫婦が里親を名乗り出たが、彼女の情緒が不安定なため「手に負えない」と施設に戻され、複数の里親をたらい回しにされていた。
施設の職員は「この子は人形を家族だと思って持ち歩いている」と話した。由美さんは自分の顔が映った窓ガラスに、しきりと話しかけた。架空の友だちを作り出し、寂しさを紛らわせているようだった。
胸が痛んだ。砂川さんは周子さんと共に彼女のそばに行き、同じ目線で「おじさんとおばさんが、お父さんとお母さんになっていい?」と話しかけた。
由美さんはびっくりしたような顔で砂川さんを見つめ、しばらくして「いいよ」と言った。砂川さん夫妻は、そのまま彼女を自宅に連れて帰った。里親登録をしたあと、由美さんが初めての里子だった。
最初は「いい子を演じていた」由美さんだったが、やがて砂川さん夫妻の「愛情を試す」ようになった。しきりと二人の気を引きたがり「どうせ私を捨てるんでしょ」「施設に戻すんでしょ」と駄々をこねた。里親に何度も「捨てられた」記憶を忘れかねているようだった。
砂川さん夫妻は愛情を込めて懸命に彼女と接し、ようやく、実の親子のような雰囲気が生まれた。
児童養護施設から電話があったのは、約1年後。由美さんを無事育てている砂川さん夫妻の姿を見て、信頼感が生まれたらしかった。
「もう1人、3歳の女の子をお願いできませんか」
砂川さん夫妻は由美さんに「妹になりたいという子がいるよ」と話し、3人で児童養護施設に向かった。
施設の前に到着したとたん、由美さんは固まってしまい、動けなくなった。そのまま失禁した。
「彼女はこの施設にいた。このまま施設に戻される、捨てられると思ったのだろう」。砂川さんは慌てて由美さんを抱きしめ、その日は連れて帰った。
翌週、決して捨てることはないと言い聞かせ、由美さんを納得させてから、再び3人で施設へ向かった。中に入っていくと、由美さんは「どの子が妹?」と尋ねた。
職員が指し示すと、そこには、まだおむつをはいている小さな女の子がいた。
「お姉ちゃんだよ」
由美さんは、小さな女の子に近づくとその手を取り、施設にある遊具ではしゃぎはじめた。
2人の子どもが心を通わせる楽しい時間が過ぎ、砂川さん夫妻と由美さんが帰る時間が来た。女の子を引き取ろうと心に決めた砂川さんは「また来るからね」と言い、周子さん、由美さんと共に施設を出ようとした。
そのとたん、女の子は「行かないで」と叫び、激しく泣き始めた。
「これでは帰れない。施設の職員にお願いして、そのまま彼女を連れて帰った」と砂川。その小さな子は、その日から砂川さんの新しい里子になった。
それから約30年。由美さんと小さな女の子は、自立する年齢になるまで砂川さんの自宅で共に暮らし、現在でもお互いが実の姉妹のように接している。
砂川さんは「その時に連れて帰った3歳の子は、今は役所に就職して公務員。結婚していて、旦那さんは自衛官ですよ」と目を細めた。
現在までに養育した子どもは延べ18人。里子の中には、自立した年齢になったあとも、砂川さん夫妻と暮らし続けている子もいる。自宅は最大12~13人の大所帯だったこともある。
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砂川さんは1970年、米国カルフォルニア州のサンタバーバラで生まれた。父親はメキシコ系米国人で、キャンプ・ハンセン(金武町など)で米兵として勤務していたころ、基地内で働いていた竜一さんの母、砂川光子さんと結婚。その後、米国に戻った。
父親の日本勤務時に生まれた姉は日本国籍を取得したが、米国生まれの砂川さんは米国籍だった。両親はやがて離婚。光子さんは子ども2人を連れて沖縄に戻り、スナックなどで働きながら、女手一つできょうだいを育てた。
「日本国籍がないから、病院に行くときは母の友だちから保険証を借りたりしていた。学校にも入れないはずだったが、母が直談判して入れてもらった」
砂川さんは〝日本人〟ではなかった幼少期を思い出す。
「当時、米兵に捨てられた子どもはたくさんいた。黒人なんかは見た目がはっきり違うから、よくいじめられたりしていた。僕なんかは日本人とほぼ同じ顔立ちだから、そんなことはなかっただけ幸せだったかも知れない」
砂川さんに日本国籍を取得させようとする光子さんの努力がようやく功を奏し、13歳の時「その日」が来た。
「学校から那覇市役所に呼ばれて、市長室に入ると市長とスーツの男性がいて…。『きょうから日本人だ。頑張りなさい』と。本当にうれしかった」
砂川さんは工業高校に進学し、自動車整備士を目指した。近くの自動車整備工場に通う人たちが、作業服のまま、弁当を持って歩いていく姿を見たことがきっかけだった。
父親のいない時間があまりに長かった砂川さんには、作業員の姿さえまぶしかった。「奥さんが作ってくれた弁当を持って、子どもたちのために一生懸命頑張っている。『なんて素敵なんだろう。自分もあんなふうに普通の家庭を持ちたい』と思った」
しかし、オートバイで通学したことが高校に発覚したことをきっかけに退学。本島のスーパーに就職した。そんな時、光子さんは何を思ったか、わが子に「米国に行き、お父さんに会って来い」と言った。
砂川さんはまだ10代。「米国は今と違って、地球から月に行くくらい遠い国だった。自分の生きる意味も分からず、さまよっているような僕を見て、父親に会えば何かが変わると思ったのだろう」
音信不通だった米国の父親に手紙を出すと「航空運賃は送るから会いに来い」と返事があった。片道切符を買い、飛行機に乗り込んだ。
米国の空港に到着した。父親が迎えに来ているはずだった。「海兵隊だったから、ランボーみたいな筋肉りゅうりゅうの人を想像していたけど…。近づいてきたのは、メタボ体系のメキシコ人だった。『まさか』と思ったが、その人は『オー、マイサン(息子よ)』と叫んで抱きついてきた」
父の姉の家でホームステイしながら、米国で暮らし始めた。当時、父に対する思いは複雑だった。
「母や姉を捨てて、17年間も養育費を払わなかった。クリスマスカードさえ送ってこなかった。その父を『許す』なんて考えたこともない」
当時、通訳をしてくれたのが東京のキリスト教会から派遣され、米国で活動していた牧師だった。「あなたはお父さんに捨てられたと思っている。だけど、お父さんも悪かったと言っている。許してあげたら」と彼が言った。
あんな人でも許していいのか。でも、自分さえ決心すれば父を許せる。そう思うと、何だか心が軽くなった。「考えてみると、父と母が出会ってくれたから僕が生まれた。それだけでありがたいことだ」
父に「許す」と伝えると、父は涙を流しながらハグしてきた。その時、砂川さんはこれからの人生で、二つのことを実行しようと決心した。
「一つは、許すことを僕に教えてくれた牧師のような人になり、自分も愛することや許すことを他人に伝えたい。もう一つは、親のない子どもを一人でも減らしたい」
米国で皿洗いのバイトをしながら教会へ通い始め、英語を学ぶうち1年が過ぎた。「このまま英語を学んで米国で暮らすこともできるが、日本に帰って、これからの人生で決意した二つのことを実行したい」と思った。
18歳の1988年、帰国した砂川さんは、奈良県の神学校、生駒聖書学院に入学し、3年間、キリスト教の専門知識を学んだ。伝道の道を歩もうと沖縄に帰り「牧師になりたい」と各地の教会に就職を依頼したが、色よい返事はなかった。
日本では高校も卒業していない。牧師への道は足踏みしたままだが、介護のアルバイトをしながら通信教育で高卒の資格を取得した。そのころ、アルバイト先の病院で出会ったのが一つ年上の周子さんだった。
周子さんは難病を抱え、子どもを持つことをあきらめていた。
「僕は将来、親のいない子を引き取るつもりだったから、病気で子どもが産めなくても僕と同じ価値観を持つ女性がいたら、その人とこそ結婚したいと常々思っていた」
しかも、周子さんもクリスチャンだった。運命的なものを感じた砂川さんは、すぐに交際を申し込み、26歳で結婚した。
その2年前、砂川さんは24歳で米国総領事館に運転手として採用され、ようやく生活が安定していた。米国総領事館では2017年まで23年間勤務することになる。
働きぶりを評価され、ビル・クリントン米大統領やキャロライン・ケネディ駐日大使から感謝状を受けるほどだった。感謝状はいまでも、教会に大切に置いてある。
26歳の時、念願だった自宅兼教会を南城市つきしろに建てた。「自分で教会を造ろうと思って場所を探していたが、たまたまドライブしていると、霧の中から現れたのが『つきしろ』だった。寂しそうな場所だったが『これこそ神のお導きだ。ここで伝道したい』と感じた」
里親の登録をしたのもその年だった。
里親は養子縁組とは異なり、里子との法律的な親子関係は存在しない。引き取った子は通常、成長すると自立して出ていく。
総領事館での仕事は朝5時に始まり、夜の10時に終わることもあった。体力的にはきつい。だが仕事の合間に聖書を読み、日曜日には近所の人たちに教会へ礼拝に来るよう呼び掛け、集まった人たちには神父として説教した。そんな生活の中、周子さんと協力しながら次々と里子たちを引き取り、愛情を持って養育した。
里親は最大4人しか子どもを引き取れないが、事情を抱える子どもたちは次々と現れる。そのため2012年には、最大6人の子どもを引き取れるファミリーホーム「砂川ファミリー」として県に届け出を行った。
県によると、県内には現在、ファミリーホームが9カ所ある。里親には2023年度末現在、315世帯が登録している。
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砂川さんが不幸な生い立ちの子どもたちと接する時に心掛けているのは「自尊心を持ってもらう」ことだ。
「親が愛してくれなくても神が愛している。育ての親が愛している。血はつながっていなくても、きょうだいがいる。今はつきしろに帰る場所がある。他人と比べて不幸という意識は持たせない」
ある日、里子の一人が「お前のお父さんとお母さんは偽物だ」と言われて帰宅してきた。砂川さんは「お前にはお父さん、お母さんが二人いるんだよ。だから他人より2倍幸せなんだ。何を言われても憎んではだめだ」と子どもに言い聞かせた。
自分の役割は「社会の破れをつくろう」ことだと思っている。「社会の破れをつくろうのは、気づいた人の使命。放っておくと破れはだんだん広がり、いずれ国そのものが破れてしまう。『親がいなくて寂しい』なんて言っている場合ではない。日本全体が大変なことになる」
米国総領事館職員、牧師、ファミリーホームの運営。「三足のわらじ」を履き、多忙な毎日が続いた。
社会人としての経験を積む中、親のいない子を養育するという「ミクロ」の視点から、日本社会、さらには日本という国家そのものの存立という「マクロ」の視点へと物の見方が変わっていった。
女性を食い物にする悪人たち。善良な人たちを狙うギャンブルのわな。その中で不幸な子どもが日々増えていく。そして日本という国そのものにも、他国からの脅威が年々高まっている。
そんな日本の現状へと目を見開かせてくれたのは、仕事で接した米国総領事館のケビン・メア総領事(在職2006~09年)だった。
「メア総領事は、運転手の僕にも熱心に国際情勢の話をしてくれた。特に中国の脅威の話が印象に残った」。砂川さんは、公私ともに高潔だったメア氏を現在でも「第二の父」と呼ぶほど慕う。
総領事館退職後は、牧師としての伝道とファミリーホームの運営を続けなら「社会の破れをつくろう」自らの使命にまい進。ギャンブル廃止や、日本の防衛力強化を訴える活動にも関わっている。
母の光子さんは2010年、61歳で天国に旅立ったが、人生の目標達成に突き進む砂川さんの姿を見て「喜んでいた」という。
砂川さんは、2011年、自宅の隣に独立した建物の教会を建設し、活動基盤を強化。2025年には初めて南城市議選に立候補し、落選したものの政治の世界にも半歩、足を踏み出した。
「このままだと日本が滅ぶのではないか、という危機感があるから」
親のない子をすべて引き取ることはできないし、引き取った子を育てるのも大変だが、それでも「無責任な大人が多過ぎる」という義憤に押され、信念の活動を続ける。「生きている限りやる。死んだらゆっくり休める」と笑顔を見せる。
必ずしも幸福ではなかった幼少期を改めて振り返る。「何で自分だけが不幸な目に遭うんだろうと思っている人も、後になってその意味が分かる。その経験があったから今がある。自分もそうだったから…。
神は、素晴らしい未来を私たちに用意してくださっていると確信している」

